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サッカーのゴールキ-パーを紹介するブログです
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1957年6月13日
旧ソビエト連邦出身の元同国代表サッカー選手。
クラブではスパルタク・モスクワでは2度の ソ連リーグ優勝、 ソ連代表では1979年に代表デビューを果たすと、1982年、1986年、1990年と3度の ワールドカップ出場、1988年の 欧州選手権で準優勝、1980年のモスクワオリンピック3位に貢献するなど97試合に出場。これはオレグ・ブロヒンの最多出場記録に次ぐもの。

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1954年12月4日
ベルギー・ブリュッセル出身の同国の80年代を代表するサッカー選手
代表レベルではEURO1980において決勝に進出している。これは今のところ、同国サッカー史上において、最も優勝に近づいた出来事である。また1986年のメキシコW杯でもチームをベスト4に導くなど、エンツォ・シーフォとともにベルギーサッカー史に無くてはならない活躍をする。
クラブレベルでは弱小クラブであったべべレンを1978-1979シーズンのリーグ制覇に導く。82年のW杯後にドイツの名門、バイエルン・ミュンヘンに鳴り物入りで入団。ゼップ・マイヤーの後継者として、このドイツの名門のゴール・マウスを任されると、その期待を裏切らぬ活躍を見せ、多くの勝利に貢献しており、 晩年にはリールセ(ベルギー)、トラブゾンスポル(トルコ)と渡り歩いて、36歳で現役を引退。
プレースタイルは、俊敏性に長け、判断よくゴールを飛び出し、ハイボールにも強く、最後列から味方を鼓舞し、自軍の士気を高める、指揮官タイプ。
1929年6月7日
メキシコ・メキシコシティ出身の元サッカー選手。
子供の頃にアントニオの省略である“La Tota”という愛称を付けられた。
1948年のロンドンオリンピックで活躍し、同年12月にメキシコ1部リーグのクラブ・エスパーニャでプロデビュー。2シーズンプレーした後、レオンに移籍している。
ワールドカップでは通算11試合に出場。勝利したのは1962年チリ大会のチェコスロバキア戦だけ。
ワールドカップ通算25失点は歴代最多記録。
1949年9月18日
イングランド出身の元サッカー選手
1964年に地元のクラブであるレスター・シティとプロ契約を結び、キャリアをスタートさせる。翌年にはリーグデビューを果たし、その後レギュラーに定着。同チームに所属していたゴードン・バンクスを移籍に追いやる。その後1974年にストーク・シティに移籍している。
3シーズンを過ごした後、1977年に移籍したノッティンガム・フォレストでは1978年のリーグ優勝、1978・79年のリーグカップ連覇、1979・80年のUEFAチャンピオンズカップ連覇に貢献。個人としても1978年にPFA年間最優秀選手賞を受賞。1980年には第1回トヨタカップに出場を果たしている。1982年にノッティンガムを去った後もサウサンプトン、ダービー・カウンティで活躍。40歳を過ぎた後も現役に拘り、数々のチームを転々としていた。
1963年11月18日
デンマーク出身のサッカー選手。
リカルド・サモラ、レフ・ヤシン、ゼップ・マイヤー、ゴードン・バンクス、ディノ・ゾフらと共に20世紀最高のGKの1人。
愛称は白い巨人。190cmを越す巨漢で、足元でのプレーやゴールエリア外に飛び出すプレーはあまり得意ではないが、ゴールライン上での圧倒的な存在感を放ち、ハイボールや至近距離からのシュートに抜群の反応を発揮した。特に、相手ストライカーとの1対1の場面では類まれな勝負強さを発揮し、相手がシュートやフェイントをかけるまで両足をずっと地面につけたまま決して動こうとしない。これは先に動いた方が負けという信念を持っており、そして最後までボールの動きをじっくり見るためであった。また、リードしている試合以外のロスタイム時のセットプレイには果敢にも相手ゴールまで上がりゴールを狙うことが多くアストン・ヴィラ在籍時に1得点、代表でも1得点挙げている他、練習試合などでは見事なボレーシュートを決めていた。
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